十三代将軍 徳川家定
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ペリー来航など幕府始まって以来の重大事に将軍になったのが徳川家定です。
当時、時期将軍の最有力候補として、水戸の徳川斉昭(なりあき)の七男で一橋家を継いでいた徳川慶喜が期待されました。しかし前将軍の家慶にも男の子がいます。後嗣問題はもめにもめた末、結局水戸家を嫌う勢力の意見が通って、家慶の第4子・家定が11月4日将軍に就任することになりました。
家定は、政治的にも人間的にも問題があり、政治は一切老中阿部正弘が仕切っていました。徳川家を権威を失墜させ幕府を滅亡に追い込んでしまったの将軍でした。
天璋院篤子
薩摩藩藩主・島津斉彬の叔父の娘で、斉彬の養女として家定に嫁がされてました。しかし、結婚後ほどなく家定は病死してしまいました。篤姫と家定が過ごした結婚生活はわずか2年たらず。家定が篤姫のもとへ奥泊まりするのも指折りほどだったようです。
その後、最後の将軍慶喜は、薩長に敗北し篤姫は慶喜のために、実家島津家とのパイプになり徳川家を滅亡から支えていたといわれています。
家定は政治的には問題がありましたが、夫としては篤姫と上手くいっていたようです。篤姫が最後までふるさとの薩摩へ帰らず、徳川家の嫁として余生をすごしたのも、家定との思い出があっての事だったのではないでしょうか。
徳川家定プロフィール
1824(文政7)年、第十二代将軍徳川家慶の四男として誕生しました。母親は跡部おみつ(本寿院)。幼名は政之助と言いました。
1828(文政11)年政之助は元服し、家祥と名乗ります。
1853(嘉永6)年に江戸幕府第13代征夷大将軍に就任しましたが、元々病弱であり立ち居振る舞いも困難だったようで、即位後5年で亡くなっています。